家庭教師の蜜壺教育(2)
万里子は若草の匂いたつ春の河川敷を水上透の手を握って歩いていた。
ご両親と面談の後、あずかったご子息だが、初対面の心も打ち解けていないうちに性教育なんかできるわけがなく、こうして散歩にと連れてきた。
いったいあの難問を、この子にどうやって理解させたらいいのか……。思い悩みながらかれこれ一時間近くも歩いている。
「ぼくは、もう十二歳だよ。手なんか握らなくてもいいだろう」
「……そうね」
堤のサイクリングコースをビュンビュン飛ばしていく自転車にぶつけられて怪我でもされたらと、つい、手を強く握っていた。その透の手を万里子は放した。透は放された手を解すように軽く振って、
「お姉さん、パパとママはどうしてぼくを連れて行かないの」
不服そうに薄い唇をへの字にして見つめてきた。
「とても大事な用があるからなのよ」
万里子は透をやさしい笑顔で包み込んで誤魔化したが、
「温泉旅行が大事なようなのかい」
と食い下がってくる。
「どうして、温泉旅行だとわかるの?」
「ママが伊豆の温泉ホテルのパンフレットをバックに入れていたのを見たんだよ」
まったく、うかつな夫婦だわ。もっと慎重にしてもらわないと。
「パパの学会の会場が、きっとそのホテルなのよ」
父親の名刺を思い出して、万里子は適当な理由をこじつけた。
「がっかいって?」
「学問の発表をする集まりのことよ」
「だったら、どうしてママもいくの?」
「……? ……?」
「ねえ、どうしてママも行くのさ。関係ないだろう」
コムサ・イズムのブランド物で身を整えた、いかにも透の聡明そうな顔で問い詰められて、万里子は返す言葉も見つからない。
「透くん、ここでお昼にしましょう」
万里子は堤の斜面にシートを敷いて、母親手作りのお弁当をバックから出した。その母親いわく、生姜焼きは透の好物で、これを食べさせればどんなに機嫌が悪くてもすこぶる明るくなる。その生姜焼きを見せてやったのに、
「ねえ、どうしてママもいくの?」とお弁当に見向きもしない。
……こまっちゃうな。
万里子はその難問をとりあえず棚にあげて、お弁当の包みを開いていく。
「お姉さんもママとおなじだ」
透は隣ですねた顔でいる。
いつまでも機嫌が悪いその透の肩に、万里子は手をやって、
「さあ、食べましょう」と促した。
「ママはぼくが興味あることを聞くと、すぐ、大人になるとわかるというんだ」
「……」
「ママの泣き声のことだって、そうだし。パパは新聞で顔を隠して黙っているし」
「……そうなの」
「大人のママがなぜあんな悲しい声で泣くの。それも決まって金曜の夜なんだ」
万里子はため息をついた。
救われるのは唯一、透が一時間の散歩で、心を打ち明けて喋ってくれるようになったことだ。
「こんどの塾の模擬テスト、全国ランクで百十番だよ。いままでの中で最低だよ」
「……そうなの」
「ママに叱られたから、いったんだよ。ママの悲しそうな声が耳からはなれないで、テストに集中できないからって」
「そしたらママは、なんていったの」
「唇を震わせて、ぼくに背中を向けただけだよ」
「そう……」
母親のいたたまれない気持ち、わからないことはないけど、せめて、子供部屋まで筒抜けるような声は慎んでほしいわ。
いくら気持ちがいいからといって節操にかけるわよ。それが隠さぬ本音だけれど、それを解決するために派遣されてきたのが、この自分である。
弁当の生姜焼きの匂を嗅ぎつけたのか、いつのまにか二人に鳩が群がっていた。その一羽が万里子の脚にまで乗ってきた。鳩の足爪で脚が傷つきそうなので万里子は手で追い払うが、すぐにまた乗ってくる。
「しつこい鳩だな」
ついに透が立ち上がって鳩を散らすために堤下まで追っかけていった。
万里子の脛から膝にかけて微かな引っかき傷がついていた。ズボンで来るつもりだったのに有香にミニスカートを強制されて、しかたなくタイトミニを穿いてきた。
脚を露出させて、両親の期待を裏切らない教育をします。というデモのつもりと有香はいうが、面談のときの父親の視線が気になってしかたがなかった。応接間のソファーで脚を組むわけにもいかず、スカートの奥は多分見えてしまっていたのにちがいない。
遠くへと鳩を散らした透が堤の斜面を駆け上ってきた。
「透くん」
「なに」
「こんどのテストいつ?」
「来週の金曜だよ」
「もうすぐじゃない、がんばんなくちゃ」
「わかっているけど答案用紙に向かうと聴こえてくるんだよ。しくしく泣いていたり、ああ、ああ、ってママの震えた声が」
そんなに声をあげて、なんて罪深い母親なんだろう。そう非難したところで解決にはならない。とにかく次のテストまで集中力を回復させてあげなければならない。
「透くん」
「なに」
「今日、初めて会ったわけだけど、お姉さんのことどう思う」
透は万里子をはにかむように見て、
「きれいだよ」といってくれた。
「うれしい!」
万里子は透を抱きしめた。
まずはスキンシップで距離を縮めてからと、ブラウスの柔らかい胸に顔を押し付けたままにした。透は乳房の弾みのある柔らかさが気持ちいいのか、うっとりとした薄目で頭をまかせている。
一片の雲もない青い空には、二羽の雲雀が囀っている。
対岸の河川敷はゴルフ練習場になっていて、球を打つ乾いた音が春風に乗って届いてくる。こっちでは家庭菜園の畑がつづいている。
「ぼくんちの畑、あそこだよ」
透が指して万里子の手を引いた。堤を二人は下りていった。
水上家の畑には、熟れたイチゴの赤玉が春の日差しに眩いほどに実っていた。ハウス栽培と違って大きさも密度もまちまちだけど、いかにも天然の瑞々しさに満ちている。
さっそく透とイチゴを摘み始めた万里子だが、畑の沢山のイチゴを見て、ふと大学教授の一人息子の頭脳を試してみたい衝動に駆られた。
万里子は畑を見回した。ざっと数えてみると、一列に百粒ほどのイチゴがある。それが四列だから四百になる。
「透くん、この畑に四百のイチゴがあるとしたら、一列はいくつぐらいのイチゴがある」
「百だろう」
そんな簡単なことを聞くなよ。透はそんな目つきで答えてきた。
「一日十個食べたら、何日で畑からイチゴはなくなる」
「四十日だろう」
この程度なら、多少、頭の回転がよければ即答できる。
「じゃあね、一日パパが三つ、ママが四つ、透くんが二つ食べるとしたら、何日で一列のイチゴはなくなる」
「約十一日だろう」
この子、すごいわ! 集中力があるじゃない。万里子は感心した。
「いまは、お姉さんがいるから、ママの声が聴こえないんだよ」
「そうなの……」
「勉強部屋に一人でいたり、試験で答案用紙にむかうと聴こえてくるんだ。あのママの声が」
受験を控えている息子がいるというのに好きな夫婦だわ。せめて、声をあげないでできないものだろうか。口にハンカチかなんか入れてすればいいのに。
「ママの声が聴こえなくなる方法がひとつだけあることがわかったよ」
「なんなの!」
「お姉さんが、そばにいたら聴こえないみたい」
「そうみたいね」
「いつまでいてくれるの」
透が思い詰めた目でみつめてきた。
「明日には帰るわ」
「いやだよ、そんなの!」
透が手に摘んだイチゴを畑に投げつけた。
添木に当たったイチゴが潰れて果肉を土に曝した。
ここまで好きになられて万里子は本望だったが、反面、責任を感じていた。
「わかったわ、しばらく透くんの家に泊まるから、それでいいでしょ」
ここは嘘をつくしかない。
「それほんと!」
「……ええ」
「わぁ!」
透が身体をぶつけるようにして抱きついてきた。万里子は足を縺れさせて仰向けに倒れこんだ。幸いにも畑には藁が敷き詰められていて、透を抱いたまま春の青い空を見つめた。
ご両親と面談の後、あずかったご子息だが、初対面の心も打ち解けていないうちに性教育なんかできるわけがなく、こうして散歩にと連れてきた。
いったいあの難問を、この子にどうやって理解させたらいいのか……。思い悩みながらかれこれ一時間近くも歩いている。
「ぼくは、もう十二歳だよ。手なんか握らなくてもいいだろう」
「……そうね」
堤のサイクリングコースをビュンビュン飛ばしていく自転車にぶつけられて怪我でもされたらと、つい、手を強く握っていた。その透の手を万里子は放した。透は放された手を解すように軽く振って、
「お姉さん、パパとママはどうしてぼくを連れて行かないの」
不服そうに薄い唇をへの字にして見つめてきた。
「とても大事な用があるからなのよ」
万里子は透をやさしい笑顔で包み込んで誤魔化したが、
「温泉旅行が大事なようなのかい」
と食い下がってくる。
「どうして、温泉旅行だとわかるの?」
「ママが伊豆の温泉ホテルのパンフレットをバックに入れていたのを見たんだよ」
まったく、うかつな夫婦だわ。もっと慎重にしてもらわないと。
「パパの学会の会場が、きっとそのホテルなのよ」
父親の名刺を思い出して、万里子は適当な理由をこじつけた。
「がっかいって?」
「学問の発表をする集まりのことよ」
「だったら、どうしてママもいくの?」
「……? ……?」
「ねえ、どうしてママも行くのさ。関係ないだろう」
コムサ・イズムのブランド物で身を整えた、いかにも透の聡明そうな顔で問い詰められて、万里子は返す言葉も見つからない。
「透くん、ここでお昼にしましょう」
万里子は堤の斜面にシートを敷いて、母親手作りのお弁当をバックから出した。その母親いわく、生姜焼きは透の好物で、これを食べさせればどんなに機嫌が悪くてもすこぶる明るくなる。その生姜焼きを見せてやったのに、
「ねえ、どうしてママもいくの?」とお弁当に見向きもしない。
……こまっちゃうな。
万里子はその難問をとりあえず棚にあげて、お弁当の包みを開いていく。
「お姉さんもママとおなじだ」
透は隣ですねた顔でいる。
いつまでも機嫌が悪いその透の肩に、万里子は手をやって、
「さあ、食べましょう」と促した。
「ママはぼくが興味あることを聞くと、すぐ、大人になるとわかるというんだ」
「……」
「ママの泣き声のことだって、そうだし。パパは新聞で顔を隠して黙っているし」
「……そうなの」
「大人のママがなぜあんな悲しい声で泣くの。それも決まって金曜の夜なんだ」
万里子はため息をついた。
救われるのは唯一、透が一時間の散歩で、心を打ち明けて喋ってくれるようになったことだ。
「こんどの塾の模擬テスト、全国ランクで百十番だよ。いままでの中で最低だよ」
「……そうなの」
「ママに叱られたから、いったんだよ。ママの悲しそうな声が耳からはなれないで、テストに集中できないからって」
「そしたらママは、なんていったの」
「唇を震わせて、ぼくに背中を向けただけだよ」
「そう……」
母親のいたたまれない気持ち、わからないことはないけど、せめて、子供部屋まで筒抜けるような声は慎んでほしいわ。
いくら気持ちがいいからといって節操にかけるわよ。それが隠さぬ本音だけれど、それを解決するために派遣されてきたのが、この自分である。
弁当の生姜焼きの匂を嗅ぎつけたのか、いつのまにか二人に鳩が群がっていた。その一羽が万里子の脚にまで乗ってきた。鳩の足爪で脚が傷つきそうなので万里子は手で追い払うが、すぐにまた乗ってくる。
「しつこい鳩だな」
ついに透が立ち上がって鳩を散らすために堤下まで追っかけていった。
万里子の脛から膝にかけて微かな引っかき傷がついていた。ズボンで来るつもりだったのに有香にミニスカートを強制されて、しかたなくタイトミニを穿いてきた。
脚を露出させて、両親の期待を裏切らない教育をします。というデモのつもりと有香はいうが、面談のときの父親の視線が気になってしかたがなかった。応接間のソファーで脚を組むわけにもいかず、スカートの奥は多分見えてしまっていたのにちがいない。
遠くへと鳩を散らした透が堤の斜面を駆け上ってきた。
「透くん」
「なに」
「こんどのテストいつ?」
「来週の金曜だよ」
「もうすぐじゃない、がんばんなくちゃ」
「わかっているけど答案用紙に向かうと聴こえてくるんだよ。しくしく泣いていたり、ああ、ああ、ってママの震えた声が」
そんなに声をあげて、なんて罪深い母親なんだろう。そう非難したところで解決にはならない。とにかく次のテストまで集中力を回復させてあげなければならない。
「透くん」
「なに」
「今日、初めて会ったわけだけど、お姉さんのことどう思う」
透は万里子をはにかむように見て、
「きれいだよ」といってくれた。
「うれしい!」
万里子は透を抱きしめた。
まずはスキンシップで距離を縮めてからと、ブラウスの柔らかい胸に顔を押し付けたままにした。透は乳房の弾みのある柔らかさが気持ちいいのか、うっとりとした薄目で頭をまかせている。
一片の雲もない青い空には、二羽の雲雀が囀っている。
対岸の河川敷はゴルフ練習場になっていて、球を打つ乾いた音が春風に乗って届いてくる。こっちでは家庭菜園の畑がつづいている。
「ぼくんちの畑、あそこだよ」
透が指して万里子の手を引いた。堤を二人は下りていった。
水上家の畑には、熟れたイチゴの赤玉が春の日差しに眩いほどに実っていた。ハウス栽培と違って大きさも密度もまちまちだけど、いかにも天然の瑞々しさに満ちている。
さっそく透とイチゴを摘み始めた万里子だが、畑の沢山のイチゴを見て、ふと大学教授の一人息子の頭脳を試してみたい衝動に駆られた。
万里子は畑を見回した。ざっと数えてみると、一列に百粒ほどのイチゴがある。それが四列だから四百になる。
「透くん、この畑に四百のイチゴがあるとしたら、一列はいくつぐらいのイチゴがある」
「百だろう」
そんな簡単なことを聞くなよ。透はそんな目つきで答えてきた。
「一日十個食べたら、何日で畑からイチゴはなくなる」
「四十日だろう」
この程度なら、多少、頭の回転がよければ即答できる。
「じゃあね、一日パパが三つ、ママが四つ、透くんが二つ食べるとしたら、何日で一列のイチゴはなくなる」
「約十一日だろう」
この子、すごいわ! 集中力があるじゃない。万里子は感心した。
「いまは、お姉さんがいるから、ママの声が聴こえないんだよ」
「そうなの……」
「勉強部屋に一人でいたり、試験で答案用紙にむかうと聴こえてくるんだ。あのママの声が」
受験を控えている息子がいるというのに好きな夫婦だわ。せめて、声をあげないでできないものだろうか。口にハンカチかなんか入れてすればいいのに。
「ママの声が聴こえなくなる方法がひとつだけあることがわかったよ」
「なんなの!」
「お姉さんが、そばにいたら聴こえないみたい」
「そうみたいね」
「いつまでいてくれるの」
透が思い詰めた目でみつめてきた。
「明日には帰るわ」
「いやだよ、そんなの!」
透が手に摘んだイチゴを畑に投げつけた。
添木に当たったイチゴが潰れて果肉を土に曝した。
ここまで好きになられて万里子は本望だったが、反面、責任を感じていた。
「わかったわ、しばらく透くんの家に泊まるから、それでいいでしょ」
ここは嘘をつくしかない。
「それほんと!」
「……ええ」
「わぁ!」
透が身体をぶつけるようにして抱きついてきた。万里子は足を縺れさせて仰向けに倒れこんだ。幸いにも畑には藁が敷き詰められていて、透を抱いたまま春の青い空を見つめた。
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