巨根伝説(3)
同僚が土産を買っている間、山口は車にもどって助手席のビニールを剥がしていた。
麗奈がここに座るのかと思うと、それだけで動悸がした。あの身体がシートに納まり、その匂いと体温がこの車の空間を満たすのだ。山口は酔うような気分でビニールを剥がしていく。
やがて、麗奈が同僚と車に来た。
「麗奈、みて、正真正銘あなたが初めてだわ!」
麗奈の女友達が剥いで丸めたビニールを見て車内をあちこちと見回す。
「いくらした山口」
こんどは男友達が車を触り、訊いてきた。
山口はこの二座席の最新のスポーツカーの値段と性能を説明してから麗奈を盗み見た。女が自分の存在価値を乗る車に託したとしたら、この車の値段と性能は、けして悪くはない気分にさせるはずだ。しかし肝心の麗奈はそんなことはどうでもいいの、という感じで同僚たちの後ろにいる。
その彼女は同僚から押し出されるようにして車までくると、空に向ってため息をついてから、身体を屈めて腰を座席に下ろし脚を揃えて乗ってきた。
山口はドアをロックした。野口麗奈との夢の密室空間が現実となったことに感激して眩暈しそうだった。そしてエンジンを掛けた。二度ほど空ふかしてエンジン音を渓谷に轟かせてから、車を駐車場から道路に出した。
山口は緊張で手に脂汗をかいていた。ハンドルが滑るので片手ずつズボンで拭いた。
麗奈は車に対して不釣合い極まりない男の横顔を一瞥した。
その男が強張った口を無理矢理開くようにして、
「その服装、よく似合うよ」といってきた。
……このダサイ月並みな台詞。
麗奈は脳裏で嘲笑った。
「安全運転するからね。せっかく乗ってくれた野口さんを怪我でもさせたら大変だから」
「あたりまえでしょう! 冗談じゃないわよ」
麗奈のきつい調子の声で山口はびくっとした。
それでハンドルが動いてしまった。
対向車線を走ってきた車が蛇行したスポーツカーにクラクションを鳴らした。
「なにしているのよ! あぶないじゃない」
山口は額からも脂汗を流していた。
後続の同僚の車が車間距離を縮めたり横に出たりして急かしてくる。
やっと、野口麗奈を乗せたというのに緊張で思うようハンドル操作ができない自分のふがいなさが山口は悔しかった。
いつもの運転さえできれば……
助手席では麗奈がいらついていた。我慢にも限度がある。
「この道を下ったドライブインで下ろして」
「乗ったばかりじゃないか」
「乗ってあげる約束は守ったのよ、そうでしょう」
「そうだけど、ドライブインまで、あと、二、三キロだよ」
「わからないの! 乗る距離までいった覚えはないわ」
「……わかったよ」
山口はそう返事した。
本当は、この坂を快適に下り、国道に出てから、あの切札をだすつもりだった……
ふーん切札か……俺が緊張をといてやる
道路は左に山腹を右に断崖を従えて、遠くの街並みを望みながら下っていく。曲がり角にはカーブミラーが設けられている。
さきほどまで緊張していた山口の顔が薄く笑っている。
その山口はカーブで右車線に乗り入れ、対向車にクラクションを鳴らさせてから急ハンドルを切って車をもどした。
「なにするの!」
麗奈の声は悲鳴に近い。
「この車はじつにいい。ハンドル操作に素直に従う」
山口はそう嘯き、車をかなりの速度で走らせていった。
あっという間に観光バスに追いつき、ミラーで車が来ないのを確認してカーブでも抜いていった。
「やっと、吹っ切れたよ。麗奈を乗せた緊張から」
麗奈なんて、なれなれしく呼んで!
彼女は山口を睨みつけた。
「でも、下ろしてよ」
「それは麗奈の態度しだいだな」
「……! どういうこと」
「お土産ずいぶん買い込んだけど、あの人のも買ったのかい。特別に世話になっているんだろう」
「いったい、なんのこと」
麗奈の視線が射すように注がれているのが山口にはわかる。いつもなら、視線が合っただけで緊張してしまうのに、それが快く思えるのは絶対的な切札を握っているからだ。山口は快適に山岳道路を走らせていく。
「もうすぐドライブインだ。後の車に休憩だとしらせたら」
「そんなことしていいの、わたし、もう乗らないかもよ」
「乗ってくるよ」
「…自信あるのね」
「そうじゃなきゃ、麗奈を下ろさないさ」
山口は駐車場に車を乗り入れると、止めた。
後続の同僚の車をだいぶ引き離してしまったらしく到着するまで待つことになった。
いかにこの車が、あの山道を速いスピードで走ってきたか。最初はあんなに緊張してハンドル操作が上手くいかなかったのに、それが、まるで嘘のように車の性能を最大限に引き出す運転ができた。
五分以上も経ってようやく同僚の車が駐車場に入ってきた。
麗奈は山口の車から下りて、彼らに手を振った。
同僚の車が隣に停まり、降りてきた女友達と麗奈はドライブインへとはいっていく。
男たちが、「山口、お前、なんて!」と窓に顔を押しつけてきたが、山口は無視して、シートを倒し、後頭部で腕を組んだ。
さっきから耳鳴りがしているのが気に障っていた。緊張のせいだろうと頭を軽く叩き、肩と腕をまわして解したら、しばらくして止んだ。
山口の思ったとおり麗奈は車に戻ってきた。
同僚に相談するわけにもいかず、すべては自分しだいであることがわかっているらしい。
山口はその彼女を乗せるとエンジンを掛け、車を道に出した。
二車線道路の左側を静かに走らせる。
「なぜ、もどってきたのか、僕がどこまで知っているか気になるからだ」
「いったい、なんのことかしら」
山口は車を路肩に寄せ、トランクのロックを解いた。
「僕のバッグを持ってきてくれ」
いつもの麗奈だったら命じられたことにむっとして無視するのに、間をおいて車から下りた。そして開けたトランクからバッグを持ってきた。
麗奈が乗り込むと、山口は車を車線に戻しアクセルを踏み込んだ。
前方の視界を断っている大型バスやトラックを追い越してから速度を落とした。
バックミラーを見ると同僚の車も追いついてきている。
「バッグに探偵事務所の報告書とボイスレコーダーがある」
麗奈の顔色が変わる。
その彼女はバッグを開けて報告書とレコーダーを取り出した。
国道は麓の街を過ぎて、河川沿いの舗装されたバイパスの広い車線になっていた。
麗奈がここに座るのかと思うと、それだけで動悸がした。あの身体がシートに納まり、その匂いと体温がこの車の空間を満たすのだ。山口は酔うような気分でビニールを剥がしていく。
やがて、麗奈が同僚と車に来た。
「麗奈、みて、正真正銘あなたが初めてだわ!」
麗奈の女友達が剥いで丸めたビニールを見て車内をあちこちと見回す。
「いくらした山口」
こんどは男友達が車を触り、訊いてきた。
山口はこの二座席の最新のスポーツカーの値段と性能を説明してから麗奈を盗み見た。女が自分の存在価値を乗る車に託したとしたら、この車の値段と性能は、けして悪くはない気分にさせるはずだ。しかし肝心の麗奈はそんなことはどうでもいいの、という感じで同僚たちの後ろにいる。
その彼女は同僚から押し出されるようにして車までくると、空に向ってため息をついてから、身体を屈めて腰を座席に下ろし脚を揃えて乗ってきた。
山口はドアをロックした。野口麗奈との夢の密室空間が現実となったことに感激して眩暈しそうだった。そしてエンジンを掛けた。二度ほど空ふかしてエンジン音を渓谷に轟かせてから、車を駐車場から道路に出した。
山口は緊張で手に脂汗をかいていた。ハンドルが滑るので片手ずつズボンで拭いた。
麗奈は車に対して不釣合い極まりない男の横顔を一瞥した。
その男が強張った口を無理矢理開くようにして、
「その服装、よく似合うよ」といってきた。
……このダサイ月並みな台詞。
麗奈は脳裏で嘲笑った。
「安全運転するからね。せっかく乗ってくれた野口さんを怪我でもさせたら大変だから」
「あたりまえでしょう! 冗談じゃないわよ」
麗奈のきつい調子の声で山口はびくっとした。
それでハンドルが動いてしまった。
対向車線を走ってきた車が蛇行したスポーツカーにクラクションを鳴らした。
「なにしているのよ! あぶないじゃない」
山口は額からも脂汗を流していた。
後続の同僚の車が車間距離を縮めたり横に出たりして急かしてくる。
やっと、野口麗奈を乗せたというのに緊張で思うようハンドル操作ができない自分のふがいなさが山口は悔しかった。
いつもの運転さえできれば……
助手席では麗奈がいらついていた。我慢にも限度がある。
「この道を下ったドライブインで下ろして」
「乗ったばかりじゃないか」
「乗ってあげる約束は守ったのよ、そうでしょう」
「そうだけど、ドライブインまで、あと、二、三キロだよ」
「わからないの! 乗る距離までいった覚えはないわ」
「……わかったよ」
山口はそう返事した。
本当は、この坂を快適に下り、国道に出てから、あの切札をだすつもりだった……
ふーん切札か……俺が緊張をといてやる
道路は左に山腹を右に断崖を従えて、遠くの街並みを望みながら下っていく。曲がり角にはカーブミラーが設けられている。
さきほどまで緊張していた山口の顔が薄く笑っている。
その山口はカーブで右車線に乗り入れ、対向車にクラクションを鳴らさせてから急ハンドルを切って車をもどした。
「なにするの!」
麗奈の声は悲鳴に近い。
「この車はじつにいい。ハンドル操作に素直に従う」
山口はそう嘯き、車をかなりの速度で走らせていった。
あっという間に観光バスに追いつき、ミラーで車が来ないのを確認してカーブでも抜いていった。
「やっと、吹っ切れたよ。麗奈を乗せた緊張から」
麗奈なんて、なれなれしく呼んで!
彼女は山口を睨みつけた。
「でも、下ろしてよ」
「それは麗奈の態度しだいだな」
「……! どういうこと」
「お土産ずいぶん買い込んだけど、あの人のも買ったのかい。特別に世話になっているんだろう」
「いったい、なんのこと」
麗奈の視線が射すように注がれているのが山口にはわかる。いつもなら、視線が合っただけで緊張してしまうのに、それが快く思えるのは絶対的な切札を握っているからだ。山口は快適に山岳道路を走らせていく。
「もうすぐドライブインだ。後の車に休憩だとしらせたら」
「そんなことしていいの、わたし、もう乗らないかもよ」
「乗ってくるよ」
「…自信あるのね」
「そうじゃなきゃ、麗奈を下ろさないさ」
山口は駐車場に車を乗り入れると、止めた。
後続の同僚の車をだいぶ引き離してしまったらしく到着するまで待つことになった。
いかにこの車が、あの山道を速いスピードで走ってきたか。最初はあんなに緊張してハンドル操作が上手くいかなかったのに、それが、まるで嘘のように車の性能を最大限に引き出す運転ができた。
五分以上も経ってようやく同僚の車が駐車場に入ってきた。
麗奈は山口の車から下りて、彼らに手を振った。
同僚の車が隣に停まり、降りてきた女友達と麗奈はドライブインへとはいっていく。
男たちが、「山口、お前、なんて!」と窓に顔を押しつけてきたが、山口は無視して、シートを倒し、後頭部で腕を組んだ。
さっきから耳鳴りがしているのが気に障っていた。緊張のせいだろうと頭を軽く叩き、肩と腕をまわして解したら、しばらくして止んだ。
山口の思ったとおり麗奈は車に戻ってきた。
同僚に相談するわけにもいかず、すべては自分しだいであることがわかっているらしい。
山口はその彼女を乗せるとエンジンを掛け、車を道に出した。
二車線道路の左側を静かに走らせる。
「なぜ、もどってきたのか、僕がどこまで知っているか気になるからだ」
「いったい、なんのことかしら」
山口は車を路肩に寄せ、トランクのロックを解いた。
「僕のバッグを持ってきてくれ」
いつもの麗奈だったら命じられたことにむっとして無視するのに、間をおいて車から下りた。そして開けたトランクからバッグを持ってきた。
麗奈が乗り込むと、山口は車を車線に戻しアクセルを踏み込んだ。
前方の視界を断っている大型バスやトラックを追い越してから速度を落とした。
バックミラーを見ると同僚の車も追いついてきている。
「バッグに探偵事務所の報告書とボイスレコーダーがある」
麗奈の顔色が変わる。
その彼女はバッグを開けて報告書とレコーダーを取り出した。
国道は麓の街を過ぎて、河川沿いの舗装されたバイパスの広い車線になっていた。
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