巨根伝説(2)
第一章 悪の華
谷の春は遅い。四月になっても滝は巨大な氷柱に覆われている。凍てついた凛とした大気が狭い空から射してくる陽に暖められて微かな気流を生じる。それも束の間で陽が陰ると谷は氷点下に戻る。
それでも五月になると春は麓から足早に近づいてくる。雪で撓んだ樹が枝を撥ねて雪煙をあげ雪崩の音が谷に響きわたるようになる。氷雪の下を流れる水の音も日増しに大きくなっていく。
そうした日が続くと春の兆しが谷のそこかしこに現れる。
滝の氷柱の崩壊が始まり、青く光った荘厳な氷の柱がある日、音を轟かせて滝壺に落ちていく。
そういう日が幾日もつづく……。
すべての氷柱が砕け、雪解けで満々と湛えた滝壺に水煙が舞い上がる頃になると、見晴らし茶屋の主人が現れる。
茶屋の周りから雪を退け、羽目板を外し、雪重で痛んだ屋根を修理してペンキを塗り直していく。
それが終る頃には雪は谷から消えて、山の緑も色づきはじめ、待ち遠しい観光客も滝を観に茶屋を訪れるようになる。
それでも、黄金週間と梅雨の晴れ間と週末が重なる日以外はまだ閑散としている。賑わうのは山の緑が濃緑に落ち着いて、滝壺の水煙が虹をかける夏になってからである。
八月の第一週の日曜日。巨岩累々とした川原を岩に手をつきながら滝へと来る女が一人。岩の狭間に足を踏み入れ、滝の景色なんかよりこの私を見てよと誇らしげに突き出した胸を震わせて歩いてくる。
……観光客の男の視線は風景よりこの私を見ている。
そんな気取った姿勢と歩き方だ。
女は滝壺に辿り着くと、屈んで手を水面に浸した。
「まあ、冷たい!」
と、瀑布の鳴動に聴こえるはずがない声をあげて、自然よりも私がここの主役であることを訴えている。その女を茶屋近くの川原で若い男女が見守っている。滝壺に手を浸した野口麗奈という女の社員旅行の仲間たちだ。
彼らはある賭けをしていた。その賭けというのは麗奈の美貌で山口という男に土産代を払わすことができるか、できないか。
「どっちに賭ける。金を出すのが白、出さないのが黒だ」
「わたしは白よ」
「わたしも白」
「女連中はみんな白か……俺も白だな」
「それじゃ賭けにならない。俺は黒にするか」
「奴はどこだ」
「トイレみたい」
「野口を乗せるために、わざわざ新車を買うなんて、たいした入れ込みだよな」
「涙がでるぜ」
男女は笑った。
「きたわよ!」
駐車場の簡易トイレから一人の男が出てきた。猫背気味の痩せた男で、肩に掛けた鞄のベルトを尻まで延ばしている。この男が山口である。
山口は錆びた鉄製の階段を下りて川原に立つと辺りを見回した。川原に同僚が集って何かを話しているが麗奈がいない。滝の方に目をやってみた。
麗奈は高所から落下する滝を眺めながら手を水面に浸けていた。
…あんな所でしゃがんで、スカートの中が見えそうだ…。
山口は独りごちる。
「見ているわよ」
「なんだか、ぞくぞくするな」
同僚たちは、その山口の一挙一動を注視している。
山口は滝の方へと足を踏み出した。岩と岩の間に踏み跡が幾つも滝へとつづいている。
その踏み跡から、山口は彼女のサンダルの跡だけを選び、靴を合わせるようにして滝壷へと辿った。
そして着くと、彼女の数歩後ろに佇んで、しばらく見つめてから山口は声をかけた。一方、麗奈は山口から声をかけられたとき、落ち着いて間を取ってから、
「山口さん、とても冷たいから手を入れてみて」
と、ちらりと彼に顔を向けただけ滝へと戻した。
山口は白泡立つ滝壺から漣が寄せる岸に目をやった。底石が透ける清澄な淵が夏の光りを乱反射して眩しく、目を細めた。
そのとき人の形をした不思議な影が淵の岸寄りをかすめるように半周して山口の足元で静止した。山口はその影を認めたが、空の千切れ雲の影だろうと別に気にもとめなかった。麗奈のように体を低くして片手を水面に浸けた。
その瞬間、影は浸された手に吸い込まれるように消えた…
山口は浸した手が突然凍てついたようになって、引き抜くように水面から上げた。手を見ると、浸した部分が赤い痣のようになっていた。
山口はその手に息を吹きかけた。
痣ができるほど冷たいなんてどういうことだ!
何度も息を吹きかけているうちに、麗奈のことを忘れていたことに気づいて視線を上げると、彼女は腰をあげてそこから離れようとしていた。その彼女を山口は呼び止めた。
「野口さん」
「なに」
「頼むから乗ってくれよ」
麗奈はめりはりのある身体を見せつけるようにしてから、
「乗ってもいいけど……」
と困惑した表情をした。
「困ったことでもあるの」
「ちょっとね」
「なに」
「断らない……」
麗奈はすくませるような美しい微笑で山口を見つめた。
「野口さんの頼みだったら、断らないよ」
「ぜったい」
「ああ」
「みんなのお土産代まで払ってくれたら乗ってもいいわ」
水瀑が虹をかけていた。その滝を背景にした彼女の姿が眩しいほどだった。男が好む女の型枠から造られたような身体が、夏号のファッション雑誌の服装を着て、いっそう美しい。
「わかったよ」
理不尽な要求だったが、彼女の美貌に負けた山口はそう返事をした。
麗奈は山口に背を向けると、岩の間を同僚のいる川原の方へと戻っていった。
これまで本人でさえも少しの揺らぎを感じたことのない圧倒的な美しい顔と男好きのする身体。そういう女の完璧な自信が滝から戻ってくる麗奈の全身から匂い立っている。
「どうだった!」
その彼女を同僚が囲んだ。
「みんなのお土産代まで払うそうよ」
麗奈はそういって、同僚に薄く笑って見せた。
谷の春は遅い。四月になっても滝は巨大な氷柱に覆われている。凍てついた凛とした大気が狭い空から射してくる陽に暖められて微かな気流を生じる。それも束の間で陽が陰ると谷は氷点下に戻る。
それでも五月になると春は麓から足早に近づいてくる。雪で撓んだ樹が枝を撥ねて雪煙をあげ雪崩の音が谷に響きわたるようになる。氷雪の下を流れる水の音も日増しに大きくなっていく。
そうした日が続くと春の兆しが谷のそこかしこに現れる。
滝の氷柱の崩壊が始まり、青く光った荘厳な氷の柱がある日、音を轟かせて滝壺に落ちていく。
そういう日が幾日もつづく……。
すべての氷柱が砕け、雪解けで満々と湛えた滝壺に水煙が舞い上がる頃になると、見晴らし茶屋の主人が現れる。
茶屋の周りから雪を退け、羽目板を外し、雪重で痛んだ屋根を修理してペンキを塗り直していく。
それが終る頃には雪は谷から消えて、山の緑も色づきはじめ、待ち遠しい観光客も滝を観に茶屋を訪れるようになる。
それでも、黄金週間と梅雨の晴れ間と週末が重なる日以外はまだ閑散としている。賑わうのは山の緑が濃緑に落ち着いて、滝壺の水煙が虹をかける夏になってからである。
八月の第一週の日曜日。巨岩累々とした川原を岩に手をつきながら滝へと来る女が一人。岩の狭間に足を踏み入れ、滝の景色なんかよりこの私を見てよと誇らしげに突き出した胸を震わせて歩いてくる。
……観光客の男の視線は風景よりこの私を見ている。
そんな気取った姿勢と歩き方だ。
女は滝壺に辿り着くと、屈んで手を水面に浸した。
「まあ、冷たい!」
と、瀑布の鳴動に聴こえるはずがない声をあげて、自然よりも私がここの主役であることを訴えている。その女を茶屋近くの川原で若い男女が見守っている。滝壺に手を浸した野口麗奈という女の社員旅行の仲間たちだ。
彼らはある賭けをしていた。その賭けというのは麗奈の美貌で山口という男に土産代を払わすことができるか、できないか。
「どっちに賭ける。金を出すのが白、出さないのが黒だ」
「わたしは白よ」
「わたしも白」
「女連中はみんな白か……俺も白だな」
「それじゃ賭けにならない。俺は黒にするか」
「奴はどこだ」
「トイレみたい」
「野口を乗せるために、わざわざ新車を買うなんて、たいした入れ込みだよな」
「涙がでるぜ」
男女は笑った。
「きたわよ!」
駐車場の簡易トイレから一人の男が出てきた。猫背気味の痩せた男で、肩に掛けた鞄のベルトを尻まで延ばしている。この男が山口である。
山口は錆びた鉄製の階段を下りて川原に立つと辺りを見回した。川原に同僚が集って何かを話しているが麗奈がいない。滝の方に目をやってみた。
麗奈は高所から落下する滝を眺めながら手を水面に浸けていた。
…あんな所でしゃがんで、スカートの中が見えそうだ…。
山口は独りごちる。
「見ているわよ」
「なんだか、ぞくぞくするな」
同僚たちは、その山口の一挙一動を注視している。
山口は滝の方へと足を踏み出した。岩と岩の間に踏み跡が幾つも滝へとつづいている。
その踏み跡から、山口は彼女のサンダルの跡だけを選び、靴を合わせるようにして滝壷へと辿った。
そして着くと、彼女の数歩後ろに佇んで、しばらく見つめてから山口は声をかけた。一方、麗奈は山口から声をかけられたとき、落ち着いて間を取ってから、
「山口さん、とても冷たいから手を入れてみて」
と、ちらりと彼に顔を向けただけ滝へと戻した。
山口は白泡立つ滝壺から漣が寄せる岸に目をやった。底石が透ける清澄な淵が夏の光りを乱反射して眩しく、目を細めた。
そのとき人の形をした不思議な影が淵の岸寄りをかすめるように半周して山口の足元で静止した。山口はその影を認めたが、空の千切れ雲の影だろうと別に気にもとめなかった。麗奈のように体を低くして片手を水面に浸けた。
その瞬間、影は浸された手に吸い込まれるように消えた…
山口は浸した手が突然凍てついたようになって、引き抜くように水面から上げた。手を見ると、浸した部分が赤い痣のようになっていた。
山口はその手に息を吹きかけた。
痣ができるほど冷たいなんてどういうことだ!
何度も息を吹きかけているうちに、麗奈のことを忘れていたことに気づいて視線を上げると、彼女は腰をあげてそこから離れようとしていた。その彼女を山口は呼び止めた。
「野口さん」
「なに」
「頼むから乗ってくれよ」
麗奈はめりはりのある身体を見せつけるようにしてから、
「乗ってもいいけど……」
と困惑した表情をした。
「困ったことでもあるの」
「ちょっとね」
「なに」
「断らない……」
麗奈はすくませるような美しい微笑で山口を見つめた。
「野口さんの頼みだったら、断らないよ」
「ぜったい」
「ああ」
「みんなのお土産代まで払ってくれたら乗ってもいいわ」
水瀑が虹をかけていた。その滝を背景にした彼女の姿が眩しいほどだった。男が好む女の型枠から造られたような身体が、夏号のファッション雑誌の服装を着て、いっそう美しい。
「わかったよ」
理不尽な要求だったが、彼女の美貌に負けた山口はそう返事をした。
麗奈は山口に背を向けると、岩の間を同僚のいる川原の方へと戻っていった。
これまで本人でさえも少しの揺らぎを感じたことのない圧倒的な美しい顔と男好きのする身体。そういう女の完璧な自信が滝から戻ってくる麗奈の全身から匂い立っている。
「どうだった!」
その彼女を同僚が囲んだ。
「みんなのお土産代まで払うそうよ」
麗奈はそういって、同僚に薄く笑って見せた。
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